禅叢寺の由来

禅叢寺について

山号
白華山(びゃくげざん)
宗派
臨済宗妙心寺派
創建
享禄4年(1531)
本尊
釈迦如来(10世紀頃)

戦国武将との結縁

当山はもともと駿河国で勢力を誇っていた真言宗久能寺の一派として平安時代に創建し、戦国時代の享禄4年(1531)、岡部美濃守公が鎌倉建長寺の雪心和尚を開山に招いて再興しました。岡部氏はその名の通り現藤枝市岡部町の出身で、のちに岸和田藩主となった岡部長盛の祖先にあたる戦国武将。今川家に仕え、当時この地方を領有していました。岡部家に軍学の師として仕えた山本道鬼(勘助)が陣中で使用していたとされる「鉄笏」と「三つ巴紋の食篭」を保管していましたが、昭和20年の空襲で焼失しています。

過去帳によると、準開山(2代)を務めた九岩和尚は、織田信長の三男・織田信孝(神戸信孝)の孫にあたる人物。信孝は清須会議で柴田勝家側に付き、秀吉側に付いた兄信雄から疎まれて自害に追い込まれ、神戸家も関ヶ原の戦いで断絶しましたが、九岩和尚の実弟神戸元久の子孫は現在も続いています。

禅叢寺 白隠達磨軸

白隠と次郎長が学ぶ

元禄16年(1703)、後に臨済宗中興の祖となる白隠慧鶴(当時19歳)が、雲水行脚修行最初の寺として当山の衆寮に掛搭。千英和尚の講座を受けます。このとき、唐代の名僧巌頭和尚が賊に襲われ、数十里先まで聞こえるほどの大絶叫を上げたと知り「巌頭和尚でさえ賊の難すら避けることができないようでは、参禅学道など無意味だ」と大いに悩み、修行はさておいて書や絵画の腕を磨いたと白隠禅師年譜に記されています。

幕末、書の名手であった第16代月汀和尚のもとへ、幼年だった山本長五郎(後の清水次郎長)が寺子屋修行に通いました。やんちゃ坊主だった長五郎は和尚の手を焼かせ、退塾させられたということですが、後年、次郎長一家が森の石松の仇討ちをする際、当山の竹藪で竹槍を作ったと伝わります。

『清水』の地名発祥

当山はその名が示すとおり、竹藪に覆われた小高い丘にあり、地震や津波の害に強く、地域の人々の避難所としての役割を果たしていました。境内には今も良質の水が湧く井戸があり、江戸期以来、低湿地の上町や浜清水住民の飲料水として、また清水湊の入港船への補給水として活用された『チャンチャン井戸』の元井戸と伝わります。『清水』という地名は、この井戸に由来するといわれます。

  • 薬師堂 医王堂扁額
  • 薬師如来(非公開)

薬師如来の由来

当山の薬師如来は、明治維新前、当山の門前にあった塔頭法西寺の本尊でした。維新後、合寺となったとき、当山境内に移し、『医王堂』と名付けた薬師堂にお祀りしました。毎年1月8日の初薬師縁日は、戦前まで善男善女で大いに賑わったと伝わります。

薬師如来は病気を治癒する偉大な法力を持つといわれ、法力が消耗されぬよう、逗子は閉じられ、平時は非公開。御開帳は60年に一度と定めています。前回は平成12年(2000)5月8日に山門を再建した際の落慶法要記念として御開帳しました。

Byakugezan Zensouji

臨済宗妙心寺派 白華山 禅叢寺(びゃくげざん ぜんそうじ)

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